油屋町の紹介
油屋町の紹介
概 要
油屋町は、県庁から浜町を通ってつづく国道324号線が町を貫いて郊外へとのびる旧踊町の内、いちばん南に位置する町で、1番から6番までの街区で構成されています。
(昭和41年からは八坂町の1部を加えた街区となっていますが、踊町は昔のままの街区で出場しています)
昔はその名の通り油屋がならび、市中の油販売の権利一切を油屋町が持っていたと言われていますが、現在は、衣料品店や食料品店の建ち並ぶ商店街となっています。
最寄りの駅は・・(電車)思案橋、崇福寺 (バス)思案橋、崇福寺入口
傘 鉾
現在の傘鉾は、明治の頃に作られたものと思われます。 今は使用していませんが、古いタレに「東濱町徳島屋 西角岡部商店調製」とある事から1880年前後(明治10年頃)の作と考えています。
[ 飾 り ]
飾りは、畳の上に三方を置き、熨斗を献上する意匠となっており、その熨斗が落ちない様に宝玉で押さえてあります。
[ 輪 ]
しめ縄
[ 垂 れ ]
垂れは、前日(7日)と後日(9日)で意匠が変わります。(中日(8日)は前日と同じ物を使います)
(前日の垂れ) 深紅の塩瀬に波と朝日をあしらう。(平成18年旧意匠のまま新調) (後日の垂れ) 緑地の塩瀬に金糸にて三社紋を刺繍したもの。
油屋町川船(あぶらやまちかわふね)
油屋町川船は昭和48年(1973年)に初めて奉納されました。 平成28年度(2016年)は7回目の奉納になります。
現在の船は、総檜造り(そうひのきつくり)で昭和55年に建造されました。
長さは6メートル、幅は1.8メートル、高さは4メートル、重さは約3トンです。
川船の飾りは、傘鉾の宝玉と関連するダシで「楓紅葉に魚籠と網を配し薄(すすき)を添える」ものとなっています。
これは、「宝玉」=タマ、「薄(すすき)」=オバナ、「魚籠」=ビク、「楓紅葉」=カエデ、「網の上の輪」=ワ
これを続けて読むと、タマオビカワ=「玉帯川」となります。
「玉帯川」=油屋町の横を思案橋の方へ流れている川でした。 今は、崇福寺電停の所から暗渠(あんきょ)となり電車の線路と油屋町との間の道路の下になってしまいました。
川船のこと
[ 読 み 方(船に関する事) ]
油屋町川船根曳舟唄(あぶらやまちかわふねねびきふなうた<根曳唄>)
1 船はさかまく 流れを上る あれは油屋川船じゃ
2 錦おりなす 玉帯川に 今日も船頭の櫓がはずむ
川 船(かわふね)
かわぶねとは濁りません。
船 頭 (せんどう)
船頭は川船で一番偉い人です。もちろん、船頭がいないと船は動きません。船頭は町を出てから帰るまで、道を歩く事はありません。
他町では網打船頭にたいして飾り船頭などという呼び名がありますが、当町では2人体制のときも「船頭」と「網打船頭(あみうちせんどう)」と呼びます。
長采振 (ながさいふり)1人
船の動きを指示する最高責任者です。「ながさい」などと略して呼ばれる事もありますが、正式にはこう呼びます。
采 振 (さいふり)4人
長采振の指示を根曳に伝えます。また、根曳に危険が無いか気を配ります。 長采振と同じで、にごりません。
根 曳 (ねびき)16人
船の推進役。つまりエンジンです。船には舵がありませんので「まわし」などの時は力と瞬発力が必要です。 ひきの字には曵・曳、両方ありますが曳を採用しています。また、送り仮名(き)はつけません。
囃 方 (はやしかた)6人×2組
船の中ではやしを叩く、小学校3年〜6年位までの子供です。油屋町のはやしは「道行き」「網打ち」「はしり」「まわし」「根曳唄」「網待ち」「庭先」の7つ。 囃子・囃しなどではなく囃の一文字です。
先 曳 (さきびき)
船を踊場に曳き入れる役目をする概ね小学校低学年位までのお子さんです。くんちにはこの先曳として初めて参加します。 付添いのお母さん達の衣装も必見です。